MY CONCLUSION
私はタトロプロジェクトを通してフィリピンの貧困問題に向き合ってきました。どうしたらより良く人々の役に立てるだろうか、貧困解消の糸口が見出せるだろうかと試行錯誤の日々でした。しかし一年が経過し様々な出来事を経た後に、自分の視点に反省すべき点があったことがわかりました。
貧困が問題だと思うから問題になる
貧困を含め世界にある全ての事象は中立に存在していて、それを自分がどう定義付けるかで意味合いが変わってきます。つまり貧困を問題だと捉えれば問題になるし、問題でないと考えれば問題ではなくなるのです。
私はずっとそれを問題だと定義していたから、その解決方法を必死で探そうとしていたのです。しかし私は自分の活動によって自分の思う幸せの形をフィリピンの人たちに押し付けていたのかもしれないと思った時、世界は既に完璧であってそこには何の不足もないということに気付きました。
「物がない=不幸せ」という概念
私は自分の中にある”助けてあげたい”という気持ちにずっと向き合ってきました。この気持ちがどこから湧いてくるのか考えてみた時に、”物がない状態は不幸なことであり、だからその状態にある人たちはかわいそうである”という定義が自分の中にあることがわかりました。つまり本来幸せは自分で育めるものなのに、幸せは物が与えてくれるものだという物質至上主義の思考が、フィリピンの人たちに対するかわいそうという見方に繋がっていたのです。
彼らは今のままでも十分幸せそうで屈託のない笑顔を見せてくれているにも関わらず、私は私の思う幸せの概念(フィルター)を通して彼らのことを見ていたのです。
私はフィリピンの人たちに今よりも生活が豊かになるようなアイディアをいくつか提案してきました。仕事の斡旋やお店の開店サポート、Webを使った商品の販売などあらゆることを提示してきましたが、彼らに今の生活を変えたいという意思が感じられなかったのです。つまり生活を変えようとしていたのは私だけで、彼らは今に不足を感じていなかったのです。一日一食しか食事を口にできない日もあるかもしれません。しかし彼らはその生活を選んでいたのです。
それに気付いた時、私は自分がいかに私の定義する幸せを押し付けていたかということを知りました。フィリピンの人たちにもそれぞれそこに生まれた理由や、今そのような生活をしているのには理由があって、外の人間が変えようとするべきものじゃないと。むしろ変えるべきなのは、私の中にある信念なのだと悟りました。
それに気付いてからは、彼らのことをかわいそうな存在として見るのではなく、たくましいな、立派だなと、知恵を絞って生き抜く力に感服する自分がいました。
確かに彼らは自分よりも物が少ない生活をしているかもしれない。しかしそこには幸せかどうかという因果はなく、本人がその状態を幸せだと定義していれば、それは幸せな生活なのです。
貧しさを選択している人もいる
みんながみんな同じような生活を夢見ているわけではなく、人はそれぞれ理想とする状態が違います。中には好んで貧しい生活を送っている人もいます。豊かな人から何かをもらってあげることで、彼らに愛や優しい気持ちなど温かい感情を与えている人もいます。それぞれ理由があってそのように存在していることがわかれば、自ずと意識は自分自身に向いてきます。つまり、私にできることは自分自身を生きることしかなかったのです。